針路を誤らず、厳しい時代を突き進む社長のWebマガジン
NORTH UP な社長たち(ノースアップな社長たち)
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
NORTH UP な社長たち
「NORTH UP」とは、常に北を指すナビ設定。つまりは”針路を誤らない”を意味し、
針路を誤らず厳しい時代を突き進む中小企業の社長たちを称して「NORTH UP な社長たち」と呼ぶ。

駒ヶ根市と目指したリサイクル社会

環境型社会の最前線に生きる:有限会社 松岡産業:代表取締役 松岡宅吉:

ゴミ拾いをしながら

「あー松岡産業の社長ね!いつも犬の散歩をしながらゴミ拾いをしているよ。」
駒ヶ根市で資源リサイクル業を営む松岡社長は、地区内では尊敬される存在だ。会社全体でも隔週の金曜日は従業員で地域のゴミ拾い活動を行っている。例えば自分の会社へ運ばれるべき紙くずなどがトラックから舞い落ちたりしてはいないだろうか…?そんな心配もあろうし、社員教育としての地域貢献活動の一貫でもあるだろう。しかし飾られることのない沢山の感謝状を拝見すると、環境へ取り組む姿勢が松岡産業にとってはいかに日常的であるかが伺い知れる。

社員教育の成果

松岡産業松岡産業という会社は社員ですぐわかる。活力があり、大きなあいさつでお客さんを迎え入れる。「仕事柄、でかい声が出ないと危ないんだよ。」だから活力朝礼と称して「あいさつ」を重んじ、発声練習をする。そして「職場の教養」を読み学ぶ。「当り前の事を毎日しているだけ」と松岡社長はおっしゃるが、社員は会社の顔となって地域からの信頼を勝ち取っている。
一つのエピソードがある。駒ヶ根市が工場誘致に成功した大きな企業があり、金属片を主とした産業廃棄物を回収してもらう業者選定の段階となった。業者選定には当然ながら見積額が大きな選定要因になるのだが、それに合わせて企業担当者が見積もり各社を訪問することにもなった。結局は松岡産業が選定されたわけだが、企業担当者が感心したのは松岡産業の社員の質の高さだったようだ。
「当社へ毎日出入りしてもらうのであれば、松岡産業の社員にしたい。」

高度経済成長期

ご商売は父上が始められた「鉄くず回収」からスタートしている。1960年頃だから、日本は高度経済成長期真っ只中である。中国を見ればわかるが、後進国が経済成長を始める段階ではゴミであろうとその中から資源を回収する。日本からどれほど大量の鉄くずやスクラップ、使い古しのパソコン、古紙などがゴミ輸送船で中国に運ばれたことかをご存知の方も多いだろう。彼らはパソコンを分解しては、資源材料に回し続けた。当時の日本こそ、戦後間もなくであり資源の乏しい国である。頻繁に廃品回収のトラックやリヤカーが家々を巡回していた時代だ。「電線を回収してきては、周囲のビニールや塗膜ニスを除去するために、一度燃やしてから銅線だけを取り出す作業を手伝ったものだ。」と松岡社長も回想する。50年前の日本はいたるところでそんな様子だったのである。経済発展こそが最優先の時代だった。「俺がやってあげないと誰もいないし、親父が困ると思って…。」高校を卒業すると同時に家業を継ぎ、昭和51年には法人化した。
業績は順調で、売り上げを伸ばし続けた。要因の一つは長らく続いた中国の経済発展だという。日本では不要とされるものが中国では必要とされることで業績も伸びてきた。そしてもう一つは、国内のリサイクル社会への急速な変化により、業界全体の必要性が急速に高まったことによる。

駒ヶ根市と目指したリサイクル社会

松岡産業お忘れだろうが、つい15年ほど前までは燃やせるものは家庭や会社でどんどん燃やしていた。今では急速に循環型社会の自覚も芽生え、リサイクルできるものはリサイクルへ回すというのが我々の共通認識だ。どうやら、そのきっかけとなったのは古新聞・古雑誌などの古紙にあるらしい。
古紙はオイルショック後の高騰を最後に長らく下落が続いていたそうである。世に溢れる古紙は再利用されることもなく、仕方なく燃やされる時代が続いたそうだ。ところが大量の「焼却灰」に悩まされていたのが焼却施設を運用する側の行政である。松岡産業の地元である駒ヶ根市は、民間出身の市長ということもあっていち早くリサイクルに取り組んだ。いくつかのモデル指定区を決めて、そこの住民は新聞・雑誌・段ボールなどの古紙(一部古着)を回収所へ出すことにした。市では焼却場へ持って行かずに松岡産業へ古紙を引き取らせた。ただ松岡産業では、製紙工場に搬入すると赤字が出てしまう。そこで市は手当てを支払うことで松岡産業に引き取ってもらうことにした。松岡社長自身が環境への意識が強まったのも、当時のこの取り組みが大きかったと言う。何よりも「地元に貢献できているんだ!」という実感と喜びに震えた。
その後の駒ヶ根市の取り組みは急速に成果をあげ、周辺の市町村とも足並みを揃えながら家庭ごみの有料化とリサイクル化、野焼き禁止などの環境型社会へと劇的に変化していった。これは全国的にも早い取り組みであり、伊那谷地域が大きくリサイクル社会に移行する過程で一定の貢献をしてきたという自負が松岡社長にはある。

「笑顔」の人

中国の経済発展と日本のリサイクル社会の普及で、松岡産業の扱い量は増え続けた。広い工場敷地も大型機械を導入する必要性にも迫られたことで、平成15年に新工場を購入した。同時に社長に就任したのもこの年だった。ちょうど50歳で購入した新工場は敷地面積2,000坪弱の広さがあり、念願の800トンのギロチンを導入できた。圧倒的な処理能力を誇るこの機械は業務能率を飛躍的に向上させている。入社した息子さんも今では40歳を迎えて働き盛りとなり、企業の将来も頼もしい。
地元への貢献はその後も続いており、「駒ヶ根市環境市民会議」のメンバーとしても活躍しているそうだ。これは多様な環境問題に対応し、市が目指す環境の望ましい将来像を明らかにして市民・事業者・市が一体となって取り組むという重要な活動だ。
多くの人にとって、松岡社長は終始温厚で笑顔の持ち主であることは周知の事実である。きっと笑顔の裏返しには、培以上の辛さやご苦労があろう。我々にはどうしても粗大ゴミの処分に困る時があるのだが、そんな時、皆の困りを解決して人々が出した粗大ごみを引き取ってくれる人が「笑顔」の人であるというのは恵まれている。

 

text/ Photo Kobayashi